対馬丸記念館
2018年3月9日~3月12日の沖縄旅行記
10時半、対馬丸記念館に来ました。
対馬丸事件概要
昭和19年、第2次大戦中、
疎開のため、たくさんの人を
貨物船である対馬丸に乗せて
沖縄から本土へ移送しました。
8月21日に那覇港を出港。翌日の22日夜10時過ぎ、
アメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて船は沈没。
何の罪もないたくさんの子どもたちを含む民間人が
悲惨な死を遂げました。
犠牲者数は1400名以上とされていますが
正確な数はわからないそうです。
確認したところ、
館内はフラッシュを焚かなければ
撮影OKということで資料など撮影させていただきました。
どれもこれも涙なくして見れません。
体験談、手紙、写真、映像、
どれを見ても本当に心が痛いです。
船が沈んだ時、多くの人が生きていたそうです。
8月ですから昼は強い日差しで渇きに耐え、
夜は逆に冷えて寒さに耐え、
遭難直後に台風が来て、海上は大荒れ。
その中をイカダや板切れにつかまって、
何日も飢えと渇き、疲労に耐えながら漂流し、
力尽きて次々と命を落としていく人々。
小さな子どもたちの恐怖はどれほどだっただろうか。
とても文章では表現しきれません。
これらの資料を見ていると
普天間は元々田んぼやったんですよとか
沖縄の新聞は潰さなあかんとか
沖縄の戦争被害や犠牲を冒涜するような発言が
頭をよぎってしまい腹が立ちました。
しかし怒りは何も生まないし、
戦争の根幹にも憎しみや怒りがあったと思うと
犠牲になった人たちに申し訳ない気がして
ただただ、悲しさと、戦争に対する嫌悪感を
感じながらの滞在でした。
2時間くらいいましたがそれでも全部は見きれなかったので
また行こうと思います。
対馬丸記念館のHPはこちら
http://tsushimamaru.or.jp/
10時半、対馬丸記念館に来ました。
対馬丸事件概要
昭和19年、第2次大戦中、
疎開のため、たくさんの人を
貨物船である対馬丸に乗せて
沖縄から本土へ移送しました。
8月21日に那覇港を出港。翌日の22日夜10時過ぎ、
アメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて船は沈没。
何の罪もないたくさんの子どもたちを含む民間人が
悲惨な死を遂げました。
犠牲者数は1400名以上とされていますが
正確な数はわからないそうです。
確認したところ、
館内はフラッシュを焚かなければ
撮影OKということで資料など撮影させていただきました。
どれもこれも涙なくして見れません。
体験談、手紙、写真、映像、
どれを見ても本当に心が痛いです。
船が沈んだ時、多くの人が生きていたそうです。
8月ですから昼は強い日差しで渇きに耐え、
夜は逆に冷えて寒さに耐え、
遭難直後に台風が来て、海上は大荒れ。
その中をイカダや板切れにつかまって、
何日も飢えと渇き、疲労に耐えながら漂流し、
力尽きて次々と命を落としていく人々。
小さな子どもたちの恐怖はどれほどだっただろうか。
とても文章では表現しきれません。
これらの資料を見ていると
普天間は元々田んぼやったんですよとか
沖縄の新聞は潰さなあかんとか
沖縄の戦争被害や犠牲を冒涜するような発言が
頭をよぎってしまい腹が立ちました。
しかし怒りは何も生まないし、
戦争の根幹にも憎しみや怒りがあったと思うと
犠牲になった人たちに申し訳ない気がして
ただただ、悲しさと、戦争に対する嫌悪感を
感じながらの滞在でした。
2時間くらいいましたがそれでも全部は見きれなかったので
また行こうと思います。
対馬丸記念館のHPはこちら
http://tsushimamaru.or.jp/